慶長5年(1600)9月、東西両軍が集結した関ヶ原で、戦いの火ぶたが切られた。数万の軍勢がひしめく混乱の中、家康率いる東軍は苦戦を強いられる。しかし、小早川秀秋が裏切ると西軍は総崩れとなり、石田三成は敗走。真田の忍びの頭領・壺谷又五郎は、家康の首を狙い本陣へ突撃するも、家康方の忍びに阻まれ相討ちに。西軍は大敗し、真田昌幸の野望はむなしくついえる。家康は再び大阪城に入り、諸大名の処分を開始する。